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校歌斉唱

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■ 校歌のいわれ
校歌成立は、昭和二年と記憶するが、昭和七年頃、初期校歌の改訂を行った。双方を比較されると該部分は直ちに判明する が、今日定着をみている学園歌にしても三と四の両詩は殆ど謡われない。時間の制約上からの理由によるところがその原因だろう が、この際、本学園歌の作曲者については是非各位の記憶に留められたい。  作曲者、多(オオノ)忠亮氏は宮内庁雅楽宗家のメンバー、というよりも、世に有名な、あの竹久夢二作「宵待草」の作曲者でも あって有名な方である。“待てど暮せど来ぬ人を、宵待草の遣る瀬なさ、今宵は月も出ぬそうな”、ついでに各位にはゆっくり口ずさん でもらって、このデリケートな心情を、感得されたい。
 余談だが、この作曲者にわたりをつけてくれたのは私の中学時代の同級生であり、早大の後輩にも当る小林五郎君で、私が本 学校教壇に立つことになったのを悦んで、この斡旋をしてくれた。  それはともあれ、甲子園原頭、中堅後方屋上に勝利の校旗掲揚に連れて、この校歌の演奏、この瞬間程母校愛が惻々と湧き上 る快感を覚えぬ校友はあるまい。因みに歌詞は初代校長、徳永四郎先生と小生が少々。(杉本藤次郎記)

 ■ 校歌のエピソード『多忠亮』作曲

十年前だったが、役員会で『新入生に校歌を覚えてもらうということで』新入生入学祝として、カセットテープを贈呈することを決 定。カセットテープA面に野田理事長のご挨拶と、B面に校歌・応援歌を吹き込み準備にかかりました。校歌吹奏中、大橋前会長も 見学に来られ、プロデューサーが『良い歌です。名曲です』と言われ、大橋前会長も『良い歌でしょう』と自慢されたことを思いだす。  この度同窓会七十年史を刊行するにあたり、是非『作曲家多忠亮氏』を知りたいと、好奇心が頭をもたげました。それで小生 は、大阪中之島の図書館に日参、二日間、雅楽部門を調べたが、多氏の先祖に多数の氏名があがるが、忠亮氏の氏名が出てこ ず、洋楽部門で、多忠昭氏の氏名が出てきまして感激、忠昭氏の父が、忠亮氏であったことも、又住所・電話番号も記載されてい た。小生は間違ってもモトモトと疑心暗鬼で電話しますと、息子さんのお宅(多忠昭氏)であった。やったァと小躍りした。その後二、 三回書面にて、お願いもし、写真をお送り下さったり、読売新聞連載『宵待草』をご送付下されたりでご協力いただきました。多佐 保子さんありがとうございました。今感謝の気持ちでいっぱいです。多忠亮氏の作曲を聞きながら甲子園で校歌を聞きたいのは私 一人ではあるまい。

【多忠亮 略歴】 竹下夢二作詞『宵待草』の作曲者 上野音楽学校(現東京芸術大学音楽部)大正五年卒業、宮中の代々続く雅楽宗家に生まれたが、西洋音楽 も勉強するようにとの事で、音大に入り、バイオリンを専攻した。東洋音楽学校(現東洋音楽大学)教授のかたわら、交響楽団の演奏、指揮、バイオリ ンのソロ活動等地方演奏も多かった。浪商校歌が出来たのが、昭和三年、作曲者多忠亮氏が(結核)亡くなられたのが、昭和四年という事で、校歌 作曲から一年後に亡くなられている。[合掌] (名誉顧問 田中義行 取材)